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インタビュー

2019.10.10


− 特集 − 作家は語る 日本画家 松村公嗣先生


いきあたりばったりの出会いの妙(みょう)

[松村公嗣展 
2019年11月2日(土)→12日(火)開催 
松坂屋名古屋店本館8階美術画廊 
10時→19時30分 最終日は16時閉廊]

日本美術院同人、理事として現在も旺盛な創作活動を展開されている松村公嗣先生。各時代の日本を代表する大家によって描かれてきた雑誌『文藝春秋』の表紙絵を2011年から担当し、季節感はもちろん、時に旅情を誘う“現場感”あふれる表紙絵は、今や100点を超えています。

また、松村先生は教育者としても長年歩んで来られ、昨年、愛知県立芸術大学学長の重責を終え退任。今回、学長退任記念展として開催する個展のテーマは、「巡る」。松村先生のこれまでの人生は、どうやら「いきあたりばったりの面白い出会いを巡る旅」でもあったようです。

心躍る誉め言葉

よく「子どものころから絵を描くのが得意だったのでしょう?」と聞かれますが、自分に絵の才能があるとは全く思っていませんでした。正直、「好き」という思いもそう持っていなくて。ただ、小学2年生の時の担任の先生が、やけに僕の絵を褒めてくれてね。何でもそうだけれど、「上手上手」と言われると、その気になってくる(笑)。

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特に覚えているのが、理科室で図画の写生をした時。昔の水道の蛇口は、緑青(ろくしょう:銅が酸化することで生成される青緑色の錆)が付いていることが多く、理科室の逆光の中、その青々とした蛇口からポタポタと水が漏れている光景になぜか惹かれてね。それを描いたら、「面白いね、いいね」とまたすごく褒めてくれたのです。「上手だね」もうれしいけれど、「面白い」も子どもにとってはものすごく心躍る言葉でしょう?その後、中学1年生の時の美術の先生にも褒めてもらって、そういう積み重ねが、今に至る原点だった気がしますね。

「伝統と革新は、実は相反しない」ことを学んだ大学時代

僕は、昨年まで学長を務めた愛知県立芸術大学の3期生です。ここで出会ったのが、のちに師と仰ぐ片岡球子先生です。球子先生には、厳しくも温かく(笑)育てていただきました。特に印象深く覚えているのは、ある意味、相反すると思える2つの出来事です。

実は、もともとデザインを専攻したくて他の美術大学を受験するもダメで、二浪後に受かったのが同大学の日本画専攻。正直、幼稚園から日本画に親しんできたという同級生もいる中で、劣等感も少なからずあり、しばらくはデザインへの未練もあった僕は異端児で、先生からしょっちゅう説教されていた学生の一人。そんな中、大学2年生で百号の人物を描いた時、普通の日本画でないものにしようと思い、3日間にわたり何十回も膠(にかわ)を塗ってピカピカにしてスプーンでガリガリ削るということをやったのです。実はレンブラントの展覧会を京都に見に行き、カルチャーショックと感動の入り混じった衝動に駆られ、彼のような表現を日本画でできないかと挑戦したわけです。まさに日本画の伝統から考えれば型破りも甚だしいことですが、球子先生はそれを見て、「松村、面白いことやっているね」と。その言葉を誉め言葉と思い込んだ僕(笑)は、卒業までそれこそいろいろな技法を試しました。球子先生はそれを否定されなかった。

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その一方で、日本画の伝統について非常に厳しくおっしゃるところもあったのです。日本画は鉱物から精製した絵具を膠で定着させながら描くのに熱が必要。当時、炭火から電熱器へと、その熱源の移行期で、事務局からは「切炭を使わないでくれ。電気の方がよほど安いから」と言われていたのですが、球子先生は「自分の目の黒いうちはだめだ」と猛反対。筆にしても炭にしても、片方ではそういう伝統的なものの良さをしっかりと教えてくださいました。

人は出会いで磨かれる

球子先生との出会いもそうですが、僕は、「人は出会いで磨かれる」と思っています。しかも、いきあたりばったりの出会いこそ、実に面白いと。

二浪してかなり落ち込み、植物園でふて寝していた時期がありました。そんなある日、僕の目の前で一人の老人が絵を描き出した。当時の僕は、絵が出来上がっていくさまが、まるで魔法のように思えて面白くて、何時間もずっと見ていたのです。すると、老人が声をかけてくれ、それから毎週末、一緒に絵になりそうな面白い風景を巡り歩くようになりました。当時はそれがどう生きるとかそんなことを考えもしませんでしたが、のちの球子先生の教えとともに、“現場感”を大事にする私の日本画の原点はここかなと思いますね。

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また、高校生の時にはこんな経験が。友人3人とバックパック一つでの格安の北海道旅行を4カ月ほどもかけて綿密に計画。それが、出発した後に起こった新潟地震の影響でルートや時間などが狂いに狂い、函館についたら、もう全く別物のスケジュールにせざるを得なくなっていた。そこが人生観の大きな転機になりましたね。あの4カ月の苦労は何だったのだろうと最初は思ったのですが、結果的には、いい加減になってしまった旅が、実はものすごく楽しかったのです。現地で知り合った漁師さんの家に泊めてもらい、オホーツク海のタラ漁にまで連れて行ってもらったりもしてね。そういう出会いや触れ合いは、計画してできるものではない。以来、「いきあたりばったり」を楽しむことが僕の信条になりました。『文藝春秋』の表紙絵も、そこから生まれたものがたくさんあります。

「続ける」という価値

『文藝春秋』の表紙絵は、担当してもう9年目に入っています。僕は平松礼二さんから引き継いだわけですが、最初は、平松さんをはじめ、歴代日本を代表する画家の方たちが担当してこられたものを引き受けることへの戸惑いからのスタートでした。ただ、この大変さが本当の意味でわかるようになったのは、「続ける」ことの価値を強く意識した瞬間からです。

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月刊誌の表紙を描くというのは、春夏秋冬を意識することはもとより、その月の「顔」となるものを毎月描かなければいけない。自分のこれまでの引き出しから、3年ぐらいは得意な絵を出せる余裕がありました。いよいよそれがなくなると、学長職を務めながら何とか時間をつくり、取材に行っては下絵を描き、それをすぐに仕上げるということを繰り返してきました。もちろん、ものすごく大変(笑)。しかし、この仕事をやる中で自分の作品の幅が大きく広がったことは確かです。さまざまなところに出かけては、五感を使って感動して、その感動を描く。その中で、「これだ!」と思うものに出会うことがあるわけです。実は、球子先生がよく「自分は絵が下手。みんな下手でいい。続けていれば何かに出くわす」と口癖のように言っておられたのですが、1000枚描けば1点や2点は良い作品が生まれる。私は今も、この何かに出くわす瞬間を楽しみたいがために、描き続けているのだと思います。

今回の個展について

今回のテーマは「巡る」です。人や風景や出来事、さまざまなものに出会って、僕の仕事は成り立っています。振り返ると、いくつもの出会いを巡り巡って今があると思うのです。その中には、奈良の田舎だった我が家で二十四節気ごとにささやかなお飾りをする風習に子どもながらに興味を抱いたこと、また大学4年生の時に、日本画でなく木版画の道に進もうかと決心しかけた出会いがあったことなども。そういったたくさんの「一つひとつ」を巡り巡って、今ここに落ち着いている。作品を通して、そんな私の人生の旅を感じていただけたらと思っています。

「蝶の羽化を見たことがありますか?」――最後に松村先生からそう尋ねられた。羽化の時に少しでも触ってしまうと、すくすくと育たない蝶が生まれてくるのだと。人を育てることも一緒で、本人が飛び立とうとしている時には、やりたいことをやらせることが何より大事だと。学長退任記念展として開催する今回の個展では、これからの日本画壇への熱いメッセージも込められたものになっています。ぜひ、美術画廊へ足をお運びください。

【略歴】

松村公嗣先生

1948年 奈良県生まれ
1974年 愛知県立芸術大学大学院修了
片岡球子に師事する
1993年 名古屋御園座緞帳「十二支」原画制作
1998年 日本美術院同人推挙
2000年 愛知県立芸術大学日本画教授
2010年 絵本『すみ鬼にげた』「第57回産経児童出版文化賞」美術賞受賞
春日大社「平成おん祭絵巻」全6巻完成奉納
2011年『文藝春秋』表紙絵(1月~)
2013年 愛知県立芸術大学学長
2019年「愛知県立芸術大学 学長退任記念 松村公嗣展‐巡る‐」(松坂屋美術館)
「松村公嗣展」(松坂屋名古屋店・大丸心斎橋店)開催
現  在 日本美術院同人、理事、愛知県立芸術大学名誉教授

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