Vol.45 松坂屋名古屋店の変遷(大正・昭和初期)|松坂屋史料室
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特別展示松坂屋と建築家・鈴木禎次「名古屋をつくった建築家」といわれる建築家・鈴木禎次は松坂屋との関係がとりわけ深いことでも知られていました。鈴木建築事務所を設立した大正10(1921)年頃、鈴木は松坂屋の臨時技師長をしていたとの説が伝わっていたほどです。その鈴木が、明治39年以降名古屋に赴任してすぐに行った仕事の中に、デパートメントストアいとう呉服店がありました。この増築時に、現在の名店街の先駆けとなった「東西名物街」を地下1階に設けました。京都・とらや黒川店(和菓子・羊羹)、大阪・松前屋(昆布)、東京・有明家(佃煮)、東京・コロンバン(洋菓子)からなる名物街は、業界でも評判になりました。「東西名物街」を新設 (昭和12年)屋上には従来の園芸部(植物園)、水禽舎(水鳥などの小屋)、動物舎に加えて、こどもを乗せて歩く象、こども自動車、こども汽車、メリーゴーラウンド、螺旋すべり台が新たに加わりました。マツサカユーエン コドモノクニ (昭和12年)現在の南大津通りを多くの市電(1400系)が行き交う光景です。当時は横断歩道も信号機もまだ無く、乗り場は道路中央にあり、赤色に白抜き文字で「松坂屋前」停留場が確認できます。また、画像左下には和服の女性と駐車中のフォードの乗用車の横を初代セドリックタクシーが走りぬけ、対向車線には初代トヨペットクラウンと懐かしいダイハツミゼット(三輪車)も写っています。大津通 (昭和35年)昭和12年に増築した名古屋店はその後昭和28年に外壁一新工事を行いましたが、その直前の27年頃の空撮画像になります。屋上の北(左)角には、当時としては斬新な松坂屋の電飾ロゴ看板や中央右側には、7階部分を増築した旧館の大催事場を覆う採光天井が確認できます。まわりを見渡しますと、名古屋市の戦災復興土地区画整理事業で換地方式によって整備中の久屋大通りや、さらに東(上)側には国道41号線につながる堀田高岡線(現:空港線)がはっきりと写っています。近隣では北側に洋風5階建てで三井信託銀行と神戸銀行が入居していた(旧)大一ホテルの建物や、その西側には南大津通りをはさんで建設中の中部電力ビル(当時)などがわかります。名古屋店 空撮画像 (昭和27年頃)昭和12年に名古屋市で開催される「汎太平洋博覧会」に先だって、名古屋店の増築を企図しました。昭和10年8月に着工、1年半後の昭和12年3月1日に落成しました。従来の地上6階、地下2階の店舗の上に一層継ぎ足して7階建てにし、北側に延べ面積13,144㎡、鉄骨鉄筋コンクリート造り7階建て、地下2階の店舗を増設する大工事でした。また、旧館部分では、従来の円柱を補強を兼ね新館にならって角柱に統一しました。(ひとまわり太い補強柱は現在の1階化粧品売場で確認できます。)この増築により、名古屋店の面積は約33,000㎡になり、新旧2つの建物を一体化するとともに、外観も統一しました。名古屋店 増築 (昭和12年3月1日落成)いとう呉服店(スケッチ画)名古屋広小路通り(絵葉書)上野店(昭和4年)正面大ウィンドー(昭和12年)食堂街(昭和12年)全館完成記念メダル昭和12年すいきんしゃらせん

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