Vol.46 松坂屋と銘仙|松坂屋史料室
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「銘仙の大市」(昭和3年)「松坂屋の特製銘仙」(昭和3年)「松坂屋銘仙の大市」(昭和4年)新聞広告(昭和4年)銘 仙 販 売(大正から昭和初期)明治末期から大正時代にかけて、呉服商(いとう呉服店)から百貨店(松坂屋)へと成長する中で、主要顧客として想定されていたのは都市部を中心とした中・上流階級の人々でした。しかし、時代の変化とともに実用品・日用品売場やお値打ち品販売会の開催など大衆を意識した試みも多く見られるようになっていました。 その中、大正12(1923)年の関東大震災を契機に、上野店は本格的に大衆向けの販売戦略をとるようになりました。この販売戦略の変更に伴い、大衆向けの格好の商品として注目されたのが銘仙です。また、名古屋・大阪の各店でも銘仙販売会の開催は急増し、銘仙の流通・販売において、上野店の仕入が重要な役割を果たしました。松坂屋いとう呉服店(明治時代)仕入室(大正初期)上野店(大正10年頃)秩父銘仙宣伝ポスター「大宝帳」(明治26年)「鶴歩」昭和34年新年号秩 父 織 物松坂屋と銘仙の一大産地である秩父との取り引きは、江戸時代までさかのぼることができます。「鶴店の古文書 ⑤」(社内報 『鶴歩』 昭和34年新年号)に次のようにあります。秩父と鶴店(上野店)との取引関係も古く、昔は直接尾州本店(名古屋)から、「尾州様御用」という幟を立てた伊藤呉服店の買役(仕入係)が、東海道を馬に乗り、お供を連れて、宿場々々を泊りながら、箱根八里を超えて秩父に行き、絹を仕入して行ったと、今でも大森家の物語りになっているほどの古い取引先であり、当然、この鶴店との取引も旺んであったことが考えられるのですが、残念にも、古い記録が、明治11(1878)年の大宮町(現:秩父市)の大火で全町ほとんど焼失しているので、正確な古文をここに紹介することができませんが、江戸商人組合から秩父の商人組合に差し出した手紙の文面は、再複写のために判読しがたいのですが、おそらく、江戸後期の寛政年間(1789-1801)のものと思われます。この中には、差出人側に鶴店の松坂屋利兵衛、越後屋八郎右衛門、布袋屋善右衛門、白木屋彦太郎の名前が見られ、宛名人の中に、大森喜右衛門の名前もはっきり見られます。さらに、明治から大正の初めに至っては、いわゆる大福帳(「大宝帳」明治26年)によって見ても、旺んな取引の跡を見ることができるわけで、当主は大森家の12代大森喜右衛門の時代である。寛政11年、尾張藩主が9代宗睦から10代斉朝へと代替わりしたとき、上野店は藩からお召服御用を承り、併せて尾州家御紋付きの会符の使用を許されました。「尾州様御用という幟を立てた」とあるのは、その会符のことです。会符とは江戸時代、幕府、大名、天皇家、公家、寺社などが荷物の運送に際して、自分の物であることを証明するために付けた証札のことです。なかでも御三家筆頭の葵御紋の会符の威光は絶大で、途中この会符のついた荷駄(駄馬で運ぶ荷物)にあうと、士分も町人も礼を厚くしてこれを送迎したといいます。つるだなつるだなのぼりむねちかに だしぶんのぼりなりともめしふくえ ふさかかくほ

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