Vol.49 高度成長期の松坂屋(昭和30年代)|松坂屋史料室
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 昭和31(1956)年5月公布の「百貨店法」により、店頭での販売に多くの制限が加えられたために活動の場を店外に求めたこともありますが、おりからの景気上昇期にあって会社関係は大企業から中小企業まで設備投資が旺盛で、法人需要全体が高まっていました。家庭外商においても、経済の急成長と共に豊かさや憧れの象徴として“三種の神器”など爆発的な家庭電化ブームが起こりました。そして、これまでの既存顧客を保守する態勢から新たに新規顧客を開拓する時期に達していたのです。 松坂屋では1年の準備期間を経て、昭和34(1959)年3月に名古屋・上野・銀座3店の外商課の所属を営業から外し、独立した「部」に昇格させました。この外商拡充策により全店の外商部員も毎年30から40名ほど増員し、その移動手段もスクーターから乗用車へ順次切り替えて、機動力を高めていきました。 そして同年9月には外商第三部(地方担当)を新設して、さらなる固定客の獲得に乗り出すとともに、相次いで出張所を開設するなど、外商活動の強化をはかっていきました。名古屋店外商部員(昭和38年)上野店(昭和31年)創刊号昭和33年 夏号栄町店(昭和35年春)特選雑貨売場(名古屋店)美容室(名古屋店)外商スクーター(名古屋店)トヨペットトラック(静岡店)お好み大食堂(上野店)屋上遊園木馬・電動カー(名古屋店) 昭和31(1956)年4月1日、上野店南館の4階までがオープンしました(全館完成は翌32年3月20日)。「予ねて弊社上野店南に増築中の新店舗は、この程その一部4階までが完成しましたので4月1日を以て開店致すこととなりました。新館は、最高水準の冷暖房・換気装置はもとより、優美でオープンな主階段、世界で最初の透明なクリスタル・エスカレーターなど、現代建築科学の粋を集め、また飽くまで開放的な様式の外観と相俟って、明快な新感覚を横溢させて居ります。従来狭隘のため御不便をお掛けしてまいりましたが、ここに旧館の諸施設も改装の上、新旧両館を通じて画期的な商品各部門の拡充を行い、優良百貨の品揃えを実現して伝統の良品廉価を徹底し、平素の御愛顧にお応え致すべく奉仕の万全を期して居ります。」(「挨拶状」より) 「世界で最初の透明なエスカレーター」は、松坂屋がアイデアを出し、日立製作所が具現化したものです。松坂屋ではこれをクリスタル・エスカレーターと呼びました。 店のイメージアップと集客を図ることを目的に、昭和3(1928)年に創刊した名古屋店のPR誌『マツサカヤ』は、各季節の商品紹介、催事案内の他に、名古屋市内における映画やイベント等のガイドブックとしての役目も果たしていました。 東京版の『新装』は、昭和10(1935)年に会社創立25周年の記念として創刊されました。グラビアを多用した流行商品紹介、各月の催事案内、随筆・俳句・童話など文芸読み物の3つが柱でした。表紙を飾った女性の画像と相まって新鮮な感動を呼び、わが国を代表するPR誌とみなされました。発行部数は3万部強。東京をはじめとする得意先への配布のみでなく、定価10銭で駅売りも行いました。戦時色が濃くなった昭和13(1938)年に中断に追い込まれましたが、戦後昭和26(1951)年に復刊しました。(今回は昭和30年代のものから抜粋して紹介いたします。)【外商の拡充】【世界初・透明式エスカレーター】【PR誌『新装』】【昭和30年代画像コレクション】

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